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2009年05月07日(木) 記事No.2
1.岸田劉生展で感じた美しさ

アニメーションの固有性ってなんだろうと考えて行くと結構難しくて中々答えが出ない今日この頃だったんですが、絵画を見て少しヒントになることがあったのでメモ的に雑記です。
行ったのは岸田劉生展です。この岸田と言う画家は初期の頃と後期の頃とでだいぶ画風が変わっているんですね

どのように変わっているかと申しますと色んな海外の画家など影響を受けてその亜流みたいな絵を描いていたこともあったのですが、その後写実の道に進みます。

「写実」と言う分野は写真とはどう違うのかと言う問いに答えねば美術界で地位を確立し得ない分野であります。
劉生は「内なる美」や「真如」と言う物の表現に「写実」の素晴らしさ、絵画における美の本質を見出しました。
劉生の「内なる美」という概念は簡単に言うと、美術を唯心的領域にもちこんで考えると言うことです。そしてその唯心的な領域にあるものが「内なる美」なのです。

その「内なる美」の表現方法には三つあると言います
・装飾の美:内から美が形作られて来るもの。ただの線、形、色の美
・写実の美:自然の形に即して美(装飾)を見てそれを追求するもの
・想像の美:自然の形を記録・想像し、それを自由に使って内なる美と生かす←これが大事

 劉生は確かにかなり頑固な人で印象派や近代の技法に対する態度は些か頑固すぎるように感じる部分もあります。しかし、岸田劉生の美に対する切ないまでの思いは土俵は違えど美しさと言うものを求めることがあるならば見習わなければならないものだと思います。

岸田劉生は絵画を愛するが故に生涯をかけてその絵画における美しさと言うものを表現し続けてきたのです。劉生の素晴らしさは頑固なまでに人の持つ美しさに対して真摯なことです。
岸田劉生の随筆集などを読んでも、美しいものに奉公する者に向けたラブレターのようにしか読めないものもあります。

このような真摯な態度には心を打たれました。アニメーションの美しさを考えることがあるのであれば、岸田劉生という人間の態度から学ぶことは多いと思いますので、アニメファンの方も是非岸田劉生と言う人間を見直して見てほしいです。

岸田劉生展で感じた美しさとは何より岸田劉生という人間の持つ真摯な態度の美しさでした。

岸田劉生について長くなってきたので最後に、「内なる美」の表現方法で「想像の美」と言うものについて僕なりの考えを書きたいと思います。
この想像の美と言うものはきっと絵画を描く側にあるものではなく、その絵画を見る側にあるものなのだと思います。と言うのはもちろん描く側が、見た物の美しい部分を美しく描くのですが、しかしこの美しさは見る側がその絵画を見た時に心に感ずる美しさと言うものがあって始めてその絵画は「内なる美」宿すのだと思うからです。
もし、独りよがりに絵画を量産しそれを「内なる美」の表現だと言われても、その絵画は美しくありません。
その絵画が美しくあるためには、創造主たる描き手による美の想像が必要であり、それが見る者の心に響いた時に初めて「内なる美」が創造され美しくなるのです。故にこの意味で想像の美の真の創造主は見る側にあり、見る側の心が「内なる美」をもてるかどうかが重要なんだと思います。



2.アニメーションに感じる美しさ

アニメが映画と何が違うのか、それは写実と写真の違いを考えた時に見えてきました。

これは何も劉生の言う内なる美の表現がどうとかを援用して語ろうと言っているのではありません。
もちろんそういう比較文化的なことも可能でしょう、しかし、それよりも劉生の美しさに対する態度の方がよほどパクってくる価値があります。

岸田劉生の態度からわかったのは、そもそもアニメや映画の固有性に固執していてはいけないのだと言うことです。(要は考えるの止めただけですww)

もし、アニメーションというものが映画と代替可能だといわれようと「内なる美」の表現方法としての地位はすでに確立しつつあります。だとすれば表現方法としてはやり廃りはどうあれアニメーションに美しさや素晴らしさを見出せる人がいる限りなくなりはしません。
もし、テレビアニメがただの娯楽となり人間の快楽に寄り添い人間を堕落させるだけのものになったとしても、アニメファンは嘆きその醜さに憎悪しても、その裏にあるアニメに対する愛情が必ず美しいものを生み出してくれると思います。

そもそも、アニメーションの固有性を人に言わなければならないのはどんな時かと言えば、それはアニメーションを良く知らない人に対してアニメーションはこんなものだと語る時か、他の文化的なものに対してアニメーションの立場を主張する時に使うぐらいです。

以上の二つの場合に我々が語るべきは他との違いではなく、アニメーションの美しさと素晴らしさです。もちろん確固たる立場を主張することも必要でしょう。しかし、アニメーションはなんにしても歴史が浅すぎて文化的な物になって行くまだ過程に過ぎません。
この段階でこじつけのように他との違いを声高に語ったところで、アニメーションが文化的なものとして認められていくとは思えません。

と言うのはアニメは日本の文化だという時に、スタジオジブリや押井守の作るアニメを持ち出してこんな素晴らしいんだからアニメーションは素晴らしい文化なのだと言う言い方をします。

素晴らしい作品がアニメにあった→アニメーションは素晴らしい文化

これだけ見ると確かに疑問がわきます。そしてこのような状況を見て疑問を持った人は危機感を持ちアニメーションの固有性を探しに行くのでしょう。
しかし、この飛躍した理論に対して別の評価も可能なように思います。それは、このように飛躍した論理でさえ作品が素晴らしければアニメファンで無い人にもアニメーションは文化だと思ってもらえるということです。
これはそのアニメーション作品を見た人々が心の中に「内なる美」を感じたからに他なりません。

そして、アニメファンと呼ばれる人はこのアニメーションというものに対して「内なる美」を感じる感度が高いのです。だとすればそのアニメファンが伝えるべきは様々なアニメーション作品に対して、その作品固有の美を発見し、その美しさと素晴らしさを伝える美の伝道師であるべきなのです。




アニメーションの作り手には素晴らしいものを作ろうと非常に真摯な態度の方がたくさんいるように思います。
なればこそアニメファンたる人は作品に対して真摯な態度で望まなければならないのだと思います。



ここまで読んでくれた皆様に精一杯の愛情と感謝の気持ちをこめて「本当にありがとうございました。」
そして美の伝道師たるアニメファンの方々に尊敬の念をこめてI love you.
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