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2010年01月22日(金) 記事No.58
マイミクとmixiのエコーで盛り上がった話題がありまして、どうもエコーの字数制限がうっとうしい。なのでブログに書きます。

話題に上がったのは、東浩紀×桜坂洋による「キャラクターズ」です。この小説は試みが非常に面白い、キャラクター小説の私小説化と言う文芸批評も兼ねている。しかし、これならモームの「The Moon and Sixpence」でありコンラッドの「Heart Of Darkness」を読むことをお勧めします。この「キャラクターズ」の素晴らしいのは、、私小説をキャラクター化したことで、これにより近代文学を解体→脱却を図った点であります。これは近代文学の未来に向けてつくられていると思われ非常に興味深い。現実とのネタ的な面白さもメタ的な面白さも東浩紀の知性によりもの凄く楽しいものになっています。

しかしですね、この試みを失敗させてしまったのも東浩紀であります。なぜ、失敗してしまったのか。何故失敗と言えるのか、経緯はこうです。まず、東浩紀の自己への陶酔と執着が他者を排除してしまっている。対立する他者、この小説では映画技師が挙げられるが、こいつと会話が成立しないせいでバフチンの言うところのモノローグになっている。トルストイよりドストエフスキーであると言う彼と同じ指摘をこの小説は免れないにはせざるを得ない。言ってしまえばこの小説東浩紀の視点しかないのです。

だから、ナルシストだと言っている。単数の視点が悪いと言うのでは無いのですが、この企画の趣旨、また東浩紀が「存在論的郵便的」で言っていることも含めるとやはり失敗だったと言わざるを得ない。この東浩紀のナルシズムに置ける功罪と言うのは、分裂したり、共著したりで隠せるものではない。ここを無視して、批評家として十分なカウンターが打てているとするのが嘘であり小説だから何でもありは詭弁に過ぎないその何でもありを批評使用と言うお話だから。

王様ゲームと言うのは王様が変わるから楽しめるゲームであり、この王様が変わると言うのが最低限のルール、これを守らないと、東浩紀の言うところの複数的超越者論が意味をなさなくなってしまう。むしろ東浩紀がすべきであったのは他の作家を並存させることでありその上で「東浩紀」という天才を選び取らせる事。すべきと言うよりかなり希望的観測ではあるけれども、この可能性に満ちあふれた企画を「成功」させるためには、今一歩足りなかった。

故に「キャラクター」としたのが象徴的に物足りなさを感じさせる結果となっている。「キャラクター」と言うタイトルであればこの違和感は生まれなかったし、東浩紀に過剰な期待をすることは無かった。むしろ企画の趣旨を褒めちぎっていたであろう。と言うのが僕のエコーでの「「キャラクター」と言うタイトルであれば問題がなっかた」と言う発言の真意です。



ナルシーに感じるのは、この本で小説から現実を観察しようとしつつ、実際は現実のレベルで横滑りし続けてるからってのが一つと、桜坂の「私」を消去できなかったってのが一つと、割りとリア充な東の今をtwitterを通して知ってしまってるってのが一つ。このみっつ。

これは伝わってなかったようなの補足、現実の横滑りは悪いと言ってないむしろ面白さに一役買ってて流石ッスって感じ、この小説では桜坂なんて気にするほどの存在足りえていないそれが問題であり、むしろ桜坂が「私」を持ってたほうが分けわかんない面白さになり、複雑さが増していいんじゃないでしょうか、今の東がどうとかは関係ないです。むしろ僕の視点の先は昔の東浩紀の書いた「存在論的、郵便的」にあります。


「ズ」が表してるのは、分裂した東のことではなく、東を見る、キャラ化した東を読み込むキャラ達のことなのでは。

「ズ」には分裂した東浩紀もそれを読み込むキャラも含んでるとは思いますが、「ズ」の捉える範囲の問題ではない。如何に範囲を広げても東浩紀という、あふれんばかりの知性のせいで全てが東浩紀と言う一人の超越論者の視点を脱し切れていないここが、問題だと言っています。


むしろ分裂した東が各々の欲望に向かって三方向に行動した先で、ドラクエ世界地図のようにまた出会うのこそ面白みなんじゃね?だから、実は私小説もラノベも現実も、結局は一つのキャラクター・複数の生を生きられる想像力を駆動系として、回してるんじゃないかっていう指摘。

マジ素晴らしい想像力してる。皮肉じゃなく良い友達を持ったと思った瞬間でした。正直東浩紀のことなんか気にしてませんよって態度を崩そうと思ったきっかけでもあります。しかし、この結局は一つのキャラクターという結論では詰まんないですね僕は、「複数的超越者」と言うものに感じた可能性が全く、なくなってしまう。言い出した東浩紀の著書で簡単に悲観的な未来を肯定したくない。と言う希望でしょうね僕の論の出発点は、だからわざわざ過去や企画なんて物を持ち出して否定しにかかる。素直な本としての本面白さであり、「虚構の世界」から帰ってきた時に感じる胸のざわめきなり、思考の引っかかり、による良さであり面白さはもうあふれてますが、あの「東浩紀」の著作としてはやはり物足りなさを感じてしまうのです。


クォンタム・ファミリーズ読んだんでしょ?むしろこれが一番有効な手段かもしれないって気づき始めてるはず・・。

QFについてですね。これはマジで素晴らしい。ホント全てを褒めたいしいて言うなら、批評家がこんなことしたら他の批評家がかわいそう。だってほかの批評家にこの面白さの小説は書けないから蓮見重彦「陥没地帯」とか小説とは言いがたいもの書いてる事からも、東浩紀という人間の才能に困らせられる人もいると言うこと。いちゃもんつけるならこれぐらいしかない。天才過ぎることが罪。QFにおいては「キャラクターズ」なんかとはもう次元が違う。QFでの功績はもう批評家でありながら哲学までカバーしている。と言うのは、オーラなんて意味わからんものを実際に現実に使える物に昇華してしまったから、これがもう素晴らしい。これこそ「存在論的、郵便的」に感じた東浩紀というデーターベースの壮大さを感じさせてくれます。と言うのはこのQFが東浩紀という壮大なデーターベースの海から生成したものであるからです。そしてこの感覚を抱かせるのには、自分がデーターベース的消費の枠に収められてしまったことに気付き、東浩紀の壮大さを知る結果となるのです。データーベース的消費に如何様に反論しようとも、東浩紀という人物を知った上でQFを呼んでしまった読者は自分が東浩紀のデーターベースの上で消費していることを気付くのです。

いやはやもう褒めきれないよ天才で片付けたい。知れば知るほど自分の小ささを知ってしまうからね。まあ、自省の意味もこめて続けると、普通、並行世界の物語って、個々の可能性の選択の是非を問い最良の未来なり過去なりを獲得する物語でありそこにドラマがあるのだけれど、東浩紀が挑んだのは、そうした「選択」を超越しての選択の抹消、可能性をまとめ上げて、その上で量子世界の揺らぎの中から人ならざる者による「家族愛」を発掘して物語を超越しようとしている。もう才気煥発アクティブ全開ですね。このQF決して、村上春樹+『CLANNAD』+『存在論的、郵便的』のマッドSFなんてちゃちな物語はメインではないです。ふざけんな東のやつマジ読者なめてんのかと思うかもしれませんが、東浩紀という人間を知らん人=「外部」に「誤配」されることも想定しての発言であろうから凄い。奏ドンだけ天才やねん。と言うわけで結果しめは東浩紀天才ということになってしまった・・・

そもそも僕が誤配とかつかっちゃってる時点で東浩紀という人の枠から脱せないでいるのです。普段メタとかベタとかアホみたいに使う奴はアホであろうと、敢えてその手のゼロ年代(これもそうだけど)的な単語を避けていても、こと東浩紀について書くとなると彼の枠組みの外からの議論が出来ない・・・だから東浩紀のことは書きたくなかったんだよ!もう。

あ、そうそうキャラクターズでしたね。これはQFの足がかり的な作品かもしれんがぶっちゃけQFと比べるのはおこがましい程「結果的」にはだめですね。企画自体は魅力的だけど、東浩紀ワールドに引っ張られすぎていて批評的になりえない、絶対他者の視線が足りなくなる。だから、キャラクターとして単数の東浩紀という超越的な人間を書くなら問題は無く面白い。さらに他の可能性を否定することにも繋がらないし、東浩紀ワールド好きな人が消費する分には問題なく秀作だったろう。傑作たるためには東浩紀はやるべきことを欠いた、まま欠いてしまったしかも東浩紀はこのことをわかってやっているQF出したのがその証拠、だからこそナルシズムを隠しきれない。

ここまで書きましたが、この小説考えさせてくれますし何より問答無用に面白い。企画の主旨とか無視すれば読んっで損はしないはずです!さらにQFに至っては読まないと損する。しかもこれ一万部と言うレア度を誇ってるのであります。いやホントこれびっくりするぐらい少ないです。今はまだ人気ないみたいだけど、人気が出た頃にはもう読めないなんてことになる可能瀬が無きにしも非ず・・・
ああもう。アニメの事書こうと思ってたのに・・・まあ今晩書くことにしよう。


ここまで読んでくれる方がいたかどうか定かではありませんが、「本当にご苦労様です。ありがとうございました。」おおかみかくしのおにぃじゃないですが、ぶっちゃけ愛してます!家族愛的な何かを感じる今日この頃です。
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思想 |  トラックバック(0) |  コメント(5) |  記事を編集 | 

2010年01月23日(土) はじめまして
ですからキャラクターズはそもそも批評ではないのですよ。作中で触れてるように、作家が責任を持たないものは批評ではない。これだけで批評でないことは確認できる。

ワタクシ抜きで語られない小説を逆手にとって、筆者の超越論的視点に基づいて小説内で無責任な言説をする。これを一つの試みとするなら、キャラクターズを批評たらしめてるのは誰か。
つまり、takie氏でしょう。
koid | URL | コメントを編集 | 
2010年01月23日(土) Re: はじめまして
作品として近代文学に対する戦略を感じられないようなので、わかってもらえないようですが、この戦略が成功しなかった結果はやはり個人的に評価できないですね。それでもなお批評家として面白い小説を書いたというのは評価すべきでしょう。というかkoidさんのQFやキャラクターズに関する感想聞いてなかったんですが、是非聞かせていただきたいですね。
takie7 | URL | コメントを編集 | 
2010年01月24日(日) 初めまして
初めまして、犬蔵と申します。寒さもいっそう身にしみる昨今ですが、takie7さんは如何お過ごしでしょうか?

さて、今回わざわざ書き込みをさせて頂いたのはtakie7さんの「存在論的郵便的」並びに「陥没地帯」の理解をお聞かせ願いたかったからに他なりません。かつて無謀にもこれらに挑んだことはあるのですが、浅学非才なる私にはなにがなにやらサッパリ分からなかったのです。takie7さんの今回のエントリを見るに、それらをさも自在に読みこなしているかのような口振りでしたので、よろしければその読解の糸口だけでも教えては頂けないでしょうか?

ご多忙とは存じますが、お返事頂ければ幸いに存じます。
犬蔵 | URL | コメントを編集 | 
2010年01月25日(月) Re: 初めまして
> さて、今回わざわざ書き込みをさせて頂いたのはtakie7さんの「存在論的郵便的」並びに「陥没地帯」の理解をお聞かせ願いたかったからに他なりません。かつて無謀にもこれらに挑んだことはあるのですが、浅学非才なる私にはなにがなにやらサッパリ分からなかったのです。takie7さんの今回のエントリを見るに、それらをさも自在に読みこなしているかのような口振りでしたので、よろしければその読解の糸口だけでも教えては頂けないでしょうか?

はじめまして犬蔵さん、「存在論的郵便的」における僕にとっての発見とは複数的超越者論と言うものでありました。まあそんなことはどうでもいいわけです。「存在論的郵便的」というのはやはり時代とセットで評価できるものだと思います。今現在の東浩紀氏の考え方と言うものが、現代で実践され、なおその根底に「存在論的郵便的」の考え方がある「クォンタムファミリーズ」。これを読んで見ることをお勧めします。この現代においてこの作品に触れることそれそのものが価値ある行為であり、何より東浩紀氏の考えに触れられるのが大きいと思います。

実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。

と蓮實重彦氏も語られている通り、犬蔵さんは東浩紀氏を「知った」わけですので、QFでより「知る」事の素晴らしさを感じていただけたら幸いです。

さて、「陥没地帯」ですが僕の記事で引用させてもらったのは小説っぽいけどQFと比べるとあまりにも面白くなかったので、その点を強調したかったのです。蓮實重彦氏はその表層的面白さではなく、物語の運動と言うものを重視しているのだと思います。なればこそこの小説は面白くなくてもいいんじゃないかなと思っては見ますものの、やはりつまらないと言うのが僕の感想です。蓮實重彦氏の著作でお勧めしたいのは「物語批判序説」であります。この本滅茶苦茶難解ですが(僕が馬鹿なのかも知れませんが)物語の構成と蓮實重彦氏の「迂回」の不思議さ(褒めてます)を感じることが出来ると思います。

読んだらコメントでもメッセージでもかまいませんので感想を聞かせていただけると嬉しいです。
takie7 | URL | コメントを編集 | 
2012年06月29日(金) 承認待ちコメント
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