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2010年02月02日(火) 記事No.63
はなまる幼稚園の第1話を見た時は本当にショックでした・・・何がショックかって若手メインとはいえGAINAXの新作だしそれなりに楽しみにしていたわけです。それがつまらないどころか、もうわけがわからない、「もしかしてこの幼稚園児に萌えを見出すためのアニメなのか?」もし本当にそうだとしたら、自分が信じてきたものはなんだったのかと、かなり衝撃的でした。端的に言ってどこを楽しめばいいのか全くわからなかったんです。今まで見てきたアニメなら好き嫌いはあれ、そのアニメを好きな人たちがその作品を好いている理由は理解することは出来ました。しかしそれがもうわけがわからない故に理解不能だったんです。だから、それがわかるまでは、見続けようと思っていたわけです。
そして第4話で自分がヤコービの言う
(物自体の)前提なしには(カント哲学の)体系中に入り得ない。然るにかかる前提を以てしては体系中に止まりえない。
この前提を勘違いしていたのに気付いたわけです。この作品には属性的なものしかなくそれが、幼稚園児または山本先生に萌えを感じることであると思い込んでいたのです(汗
さて皆さんはこの「はなまる幼稚園」と言うアニメを視聴されていますでしょうか、まだ見てない方は是非一度見て見てください、限りなく内側に向かう道、そしてその先にある未知なるものに触れるという、不思議な体験が出来る大変興味深いアニメーションです。

インプットもアウトプットもないオートポイエーシス

さて前おきが長くなりましたね、複雑系やカオスの話は端折りますが、オートポイエーシスについて少し説明をしときます。この後良く使うので、オートポイエーシスと言うのは、自然を自ら作動しながらを生成しているものとする考えです。要するに構成要素を自分で作り出していると言うことです。そして僕が注目しているのはシステム論でのオートポイエーシスです。システムとその外部を明確に分けそこのインプットとアウトプットに注目している既存の考え方とは一線を画すものです。オートポイエーシスの考え方は "インプットもアウトプットもない" という言葉で表現される様に、外部とやりとりされる物質やエネルギーは、組織構成を変容させるものではないとしたのです。

そして、これをアニメに置き換えて考えて見ます。アニメはアニメファン(ここでは視聴者のこと)がいることを前提にしています。しかし、アニメファンがアニメの中に入ることは出来ません。もちろんアニメ業界に入ってアニメを作ることは可能ですが、単体のアニメ作品と向き合う時に、それをアニメファンが直接中に入って変容させることは出来ないです。ここに、互いに必要としつつも「インプットもアウトプットもない」一つの流れが成立しているといえましょう。
しかし、アニメとの関連でオートポイエーシスが重要なのは世界が常に自らを作動させていることによって成り立っている ということです。ただ、相対的に一連の流れがあるとかいったところで何にもなりません。具体的なアニメ作品に措けるキャラクターも幻である。この約束をわかりやすくしたものと言うと言いすぎですが、私達が生きている現実でも、例えば今読んでいただいてるこの文章も日本語が読める人にしか伝わりません。事物を私達が認識する時には、一定の条件と前提があってその上でこれは○○であると認識しているのです。そして、アニメ作品では一定の条件が設定であります。アニメファンはその設定を受け入れた上で作品を楽しむわけです。

アニメと現実

アニメファンはこの作品世界で設定の上での物語を楽しみ何かを感じることが出来ます。ここに前提があり現実との境界線があります。当たり前だと思うかもしれませんが、確かに当たり前です、アニメと現実は違います。しかし、ここで考えたいのはこの境界線を越えられないかということです。もちろんアニメと現実を混同しろといっているのではないです。アニメファンならずとも、何か芸術作品なり、小説、映画もう何でもいいですが、「作り物」で起こった「偽りの出来事」が現実世界の自分の自分の考え方なり行動に影響することがあると思います。アニメ作品が直接的でなくても間接的には私達の現実を変える可能性があることがこのことからわかると思います。

しかし、これは小さなことをあげていってもダメなんですね。現実を変えたら凄いのか偉いのか、そんなことはありません。アニメキャラの変なしゃべり方真似して現実で変人扱いされては意味無いですね。そのアニメ作品に措いて「是を求め」ていいて、そこでの真理が現実世界にも通底している事が大事で、私達を微妙玄通なものにするとまでは行かなくても、私達を相対化しその現実を揺るがすものであって欲しいのです。空気系といわれるようなジャンルもありますが、だからと言ってその作品が私達に何も与えてくれないのかと言えば、そうではないですね。独立した世界であり、物語的な真実が薄れているからこそキャラクターの真実の濃度があがり、それにより私達を相対化することも可能で、これが全くの無価値であると言うより、相対化した先を見た方が、水無さん風に言って素敵であります。

萌えとはなまる幼稚園

はなまる幼稚園と言うアニメではこの「境界」と言うものが描かれていて萌えキャラに対する批評と同じであると言えると、第4話見てて思ったのであります。杏ちゃんの「漫画と現実違いぐらいわかってるもん」この台詞はかなり面白いですね。だって到底現実の幼稚園であるとは信じがたいはなまる幼稚園で、宇宙人みたいな女の子が現実的じゃないと言い放つのです。そこで考えを改めました。「こんな幼稚園児がいると思ってやってるわけじゃないんだ」と、そこで初めてはなまる幼稚園と言う設定が受け入れられました。

すると、子供として描かれる園児、大人として描かれる山本先生、その境界として描かれるつっちーこと土田先生こうとらえると、なんだか土田先生の「オタク」と言う設定とその土田先生を愛する女性がファンタジーとしか考えられない=非現実的な幼稚園児の杏ちゃんであると言うのは、かなり自己批判的であると思います。オタクにとって都合の良い非現実的な魅力を持ったキャラクターに求愛される、しかし幼稚園児であるか故に恋愛関係には発展しえない、だからつっちーも杏ちゃんに対して恋愛感情を抱くことが無い。もしこのアニメが幼稚園児に萌えさせるためのものだとしたらこれはありえない。

つまり二次元と三次元のオタクを相対化した上での世界であると言うことです。だとするならばあの現実的なところと非現実的なところが混ざり合った、人によって気持ち悪いとまで言われてしまう、奇妙なはなまる幼稚園と言う空間も、その不安定さこそが肯定できるものになってきます。この不安定さが現実世界を少しずつ揺るがすのであり、現実を問い返しているのであります。そしてEDでより広い世界の可能性を示すのです。つまりこのアニメの作りそのものがアニメファンとアニメをの現実を相対化するものであり、その未来に対する作動を現在に措いて強要するのであり、それによりアニメとアニメファンの関係を生成させるのです。そしてこの時はなまる幼稚園と言うアニメの設定は現実を取り込んでしまっているのです。杏ちゃんなんて恐ろしい子なのでしょう。これからどうなるにせよ、はなまる幼稚園から目が離せなくなりそうです。

しかし、4話の山本先生は良かった。あと「きらきらー」ってやってるのがすごかった。
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2010年02月02日(火) はなまる幼稚園 第04話 「はなまるなデート」 3行感想。
あんずは木に登れても、テーブルには登れない。妄想と現実、格差と落差、年齢と身長。超えられない段差は、『ときめき』 で埋められる。
物理的領域の因果的閉包性 | 
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